『火垂るの墓』毎年、この時期にはアニメ版をみて涙していましたが実写版があるのを知り観てみた
ほぼアニメと同じですがアニメほど胸を締め付ける気持ちにはなれなかった。
実写の良さが見当たらない!
母親に松田聖子、親戚の叔母さんには松坂慶子には驚いた。
アニメ「火垂るの墓」の清太と節子の兄妹のモデルは、原作者の野坂昭如氏と妹の恵子さんです。
「自分は、火垂るの墓の清太のようないい兄では無かった。・・・恵子には暴力を振るったり、食べ物を奪ったり・・・」
「泣き止ませるために頭を叩いて脳震盪を起こさせたこともあった」
ぼくはせめて、小説「火垂るの墓」にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無残な骨と皮の死にざまを、くやむ気持が強く、小説中の清太に、その想いを託したのだ。
アニメと実話の違うところはコレだ
妹は2人いた
実は、野坂氏は生まれてすぐに張満谷家に養子に引き取られています。それを知ったのは11歳の時だったそうです。
同じように女の子2人も張満谷家に養女に入っていました。
野坂氏とは血の繋がらない妹です。
このうち年長の妹は、戦争前の比較的裕福な間に病気で亡くしていますので、火垂るの墓の時代には妹は1人しかいなかったというのは正しいですが、厳密には2人の妹のうちの1人ということになります。
妹は1才6ヶ月だった
義妹「恵子」が栄養失調で亡くなったのは、野坂少年が14才、恵子1才6ヶ月の時でした。
小説では節子は5才という設定にしています。
しゃべれない赤ちゃんでは、話の進行が進めづらいというので、会話が出来る年齢になっています。
ケンカをしたり、一緒に遊んだり、兄に甘えたり、といった無邪気な姿と、衰弱して亡くなる姿の対比がストーリーの見せ方のキモの部分です。
アニメでは、たどたどしく「あんちゃん・・・」と呼ぶ声に涙があふれるのですが、実際は話は出来ない年齢でした。
実は妹に食べ物を与えていなかった
戦後の食糧難の時代だったので、2人満足に食べ物を得ることはできませんでした。
14才の少年は生きる為に、1才の妹には少しの食料を与え、自分の分を確保していたといいます。
例えば、雑炊・おかゆを焚いた時、自分は鍋の底からスプーンですくって米粒を取り、妹には上澄み液をすくって飲ませていたと告白しています。
今で言うと、おも湯なので、1才少しの赤ちゃんにはあり得る話ですが、時代を考えると量が絶対的に少なかったと想像出来ます。
また、衰弱していく妹を尻目に自分だけ食べ、最後には妹の太ももにさえ食欲を感じたと「わが桎梏の碑」で告白しています。
また、恵子のための粉ミルクも空腹に耐えきれずに飲んでしまったそうです。
その時代は日本中似た様な有様でしたが、野坂氏は後々までそれを悔やんでいたといいます。
小説を発表した後も、主人公の兄を実際と違う妹思いの兄にしてしまったことも、加えて2重の苦しみだったと回想しています。
妹を日常的に叩いていた
アニメでは、節子をおんぶしたり、世話をする良い兄になっていますが、実際はそれほど育児をまともにしていなかったようです。
ろくに食べ物も与えられなかった1才の赤ちゃんはよく夜泣きをしました。
14才の野坂少年は、自分の空腹もあり、夜泣きする赤ちゃんを叩いたり、揺すったりと手荒なことをして泣き止まそうとしていました。
時には脳しんとうを起こすこともあったそうです。
ひどい話です。
生活が苦しくなると、そのはけ口として妹に当たって暴力をふるっていました。
まだ大人になっていない年齢ですから、自分の気持ちを抑えることが出来なかったようです。
まさに現代のニュースに取り上げられる虐待する親のようでした。
空襲で両親を亡くしていなかった
先に書きましたが、野坂氏は養子でした。
神戸の空襲の時には既に養子だったことは知っていました。
実の母親は亡くなっていましたが、実の父親はまだ生きていました。
小説に出てくるのは育ての両親ですが、養父は空襲で行方不明になってしまいましたが、養母は大けがをしたものの亡くなってはいませんでした。
一緒に暮らしていた義祖母も健在でした。
西宮のおばさんはいい人だった
アニメでは、自分の子供にはご飯を与え、清太たちには雑炊と、差別をしている意地悪い親戚と描かれていますが、実際は子供2人とその養母とそのまた母を引き取って生活の面倒をみてくれていました。
アニメをよく見ると描かれているのですが、大人は雑炊を食べているのが確認出来ます。
清太だけに意地悪をしているのではありませんでした。
この時代は家に置いてくれるだけでありがたいと思わなければいけない時代なのかもしれません。
西宮でのひどい話として、野坂氏はおばさんの家にいた2才年上の三女「京子」に恋心を抱き夢中になって、妹の世話をろくにしていなかったという裏話もあります。
防空壕で生活はしていなかった
上記の様におばさんが面倒を見てくれていたので、野坂氏本人は実際は防空壕で孤立した生活を送っていた訳ではありませんでした。
手塚治虫「ぼくはマンガ家」(角川文庫)を見ても、その頃は路上生活も当たり前、例えば、大阪駅前には餓死した子供の遺体が転がっている光景が普通に見られた様子が描かれています。
その様な時代背景を踏まえての設定だったといえます。
では、アニメと実話の同じところはあるのか?
全てがフィクションという訳ではありません。
現実のことも小説に盛り込まれています。
ドロップ缶に遺骨を入れたのは本当
妹恵子が1才6ヶ月で亡くなって、火葬した後の遺骨は、ドロップの空き缶に入れたと野坂氏本人が証言しています。
アニメでは象徴的に描かれる、「サクマのドロップス」
節子の最後の食料として丁寧に描かれています。
妹を亡くした野坂氏は、妹を自分で火葬にしたそうですが、火力の具合が分からずにほんの少しの骨しか残らなかったそうです。
その残った遺骨をドロップスの缶に入れていました。
小説では儚くも軽い命として印象的に描かれています。
蚊帳の中で蛍を放したのは本当
題名にもある蛍。
はかなくきれいな命の象徴として例えられる昆虫ですが、妹を喜ばせる為に、蚊帳の中で蛍を放して見せてあげた話は実話だそうです。
「火垂るの墓」は実話を元に書かれた小説
実父は戦後に新潟県副知事を務めた野坂相如氏ですが、誕生直前に野坂昭如氏は生後半年で張満谷(はりまや)家に養子に入りました。
なぜかというと、実父と実母は別居していて、野坂氏を産んで実母はすぐに亡くなってしまいました。
それで、生後半年で引き取られた訳です。
自分が養子だと知ったのは11歳の時でした、それは偶然戸籍を見たことで分かったそうです。
張満谷家には同じように2人の血の繋がらない妹がいました。
最初は、上の妹はそれなりに愛情を与えてかわいがっていましたが、残念ながら病気で早くに亡くしてしまいす。
そうするうちに戦争が始まり、生活に余裕が無くなると下の妹の世話もしなくなってきます。
そして、ついには栄養失調で1才6ヶ月で亡くなりました。
野坂氏はその懺悔の意味を込めて小説火垂るの墓を執筆しましたが、実話を元に書いたといって主人公の兄を美化して書いてしまったことが、後に野坂氏を苦しめる事となります。
実写の良さが見当たらない!
母親に松田聖子、親戚の叔母さんには松坂慶子には驚いた。
アニメ「火垂るの墓」の清太と節子の兄妹のモデルは、原作者の野坂昭如氏と妹の恵子さんです。
「自分は、火垂るの墓の清太のようないい兄では無かった。・・・恵子には暴力を振るったり、食べ物を奪ったり・・・」
「泣き止ませるために頭を叩いて脳震盪を起こさせたこともあった」
ぼくはせめて、小説「火垂るの墓」にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無残な骨と皮の死にざまを、くやむ気持が強く、小説中の清太に、その想いを託したのだ。
アニメと実話の違うところはコレだ
妹は2人いた
実は、野坂氏は生まれてすぐに張満谷家に養子に引き取られています。それを知ったのは11歳の時だったそうです。
同じように女の子2人も張満谷家に養女に入っていました。
野坂氏とは血の繋がらない妹です。
このうち年長の妹は、戦争前の比較的裕福な間に病気で亡くしていますので、火垂るの墓の時代には妹は1人しかいなかったというのは正しいですが、厳密には2人の妹のうちの1人ということになります。
妹は1才6ヶ月だった
義妹「恵子」が栄養失調で亡くなったのは、野坂少年が14才、恵子1才6ヶ月の時でした。
小説では節子は5才という設定にしています。
しゃべれない赤ちゃんでは、話の進行が進めづらいというので、会話が出来る年齢になっています。
ケンカをしたり、一緒に遊んだり、兄に甘えたり、といった無邪気な姿と、衰弱して亡くなる姿の対比がストーリーの見せ方のキモの部分です。
アニメでは、たどたどしく「あんちゃん・・・」と呼ぶ声に涙があふれるのですが、実際は話は出来ない年齢でした。
実は妹に食べ物を与えていなかった
戦後の食糧難の時代だったので、2人満足に食べ物を得ることはできませんでした。
14才の少年は生きる為に、1才の妹には少しの食料を与え、自分の分を確保していたといいます。
例えば、雑炊・おかゆを焚いた時、自分は鍋の底からスプーンですくって米粒を取り、妹には上澄み液をすくって飲ませていたと告白しています。
今で言うと、おも湯なので、1才少しの赤ちゃんにはあり得る話ですが、時代を考えると量が絶対的に少なかったと想像出来ます。
また、衰弱していく妹を尻目に自分だけ食べ、最後には妹の太ももにさえ食欲を感じたと「わが桎梏の碑」で告白しています。
また、恵子のための粉ミルクも空腹に耐えきれずに飲んでしまったそうです。
その時代は日本中似た様な有様でしたが、野坂氏は後々までそれを悔やんでいたといいます。
小説を発表した後も、主人公の兄を実際と違う妹思いの兄にしてしまったことも、加えて2重の苦しみだったと回想しています。
妹を日常的に叩いていた
アニメでは、節子をおんぶしたり、世話をする良い兄になっていますが、実際はそれほど育児をまともにしていなかったようです。
ろくに食べ物も与えられなかった1才の赤ちゃんはよく夜泣きをしました。
14才の野坂少年は、自分の空腹もあり、夜泣きする赤ちゃんを叩いたり、揺すったりと手荒なことをして泣き止まそうとしていました。
時には脳しんとうを起こすこともあったそうです。
ひどい話です。
生活が苦しくなると、そのはけ口として妹に当たって暴力をふるっていました。
まだ大人になっていない年齢ですから、自分の気持ちを抑えることが出来なかったようです。
まさに現代のニュースに取り上げられる虐待する親のようでした。
空襲で両親を亡くしていなかった
先に書きましたが、野坂氏は養子でした。
神戸の空襲の時には既に養子だったことは知っていました。
実の母親は亡くなっていましたが、実の父親はまだ生きていました。
小説に出てくるのは育ての両親ですが、養父は空襲で行方不明になってしまいましたが、養母は大けがをしたものの亡くなってはいませんでした。
一緒に暮らしていた義祖母も健在でした。
西宮のおばさんはいい人だった
アニメでは、自分の子供にはご飯を与え、清太たちには雑炊と、差別をしている意地悪い親戚と描かれていますが、実際は子供2人とその養母とそのまた母を引き取って生活の面倒をみてくれていました。
アニメをよく見ると描かれているのですが、大人は雑炊を食べているのが確認出来ます。
清太だけに意地悪をしているのではありませんでした。
この時代は家に置いてくれるだけでありがたいと思わなければいけない時代なのかもしれません。
西宮でのひどい話として、野坂氏はおばさんの家にいた2才年上の三女「京子」に恋心を抱き夢中になって、妹の世話をろくにしていなかったという裏話もあります。
防空壕で生活はしていなかった
上記の様におばさんが面倒を見てくれていたので、野坂氏本人は実際は防空壕で孤立した生活を送っていた訳ではありませんでした。
手塚治虫「ぼくはマンガ家」(角川文庫)を見ても、その頃は路上生活も当たり前、例えば、大阪駅前には餓死した子供の遺体が転がっている光景が普通に見られた様子が描かれています。
その様な時代背景を踏まえての設定だったといえます。
では、アニメと実話の同じところはあるのか?
全てがフィクションという訳ではありません。
現実のことも小説に盛り込まれています。
ドロップ缶に遺骨を入れたのは本当
妹恵子が1才6ヶ月で亡くなって、火葬した後の遺骨は、ドロップの空き缶に入れたと野坂氏本人が証言しています。
アニメでは象徴的に描かれる、「サクマのドロップス」
節子の最後の食料として丁寧に描かれています。
妹を亡くした野坂氏は、妹を自分で火葬にしたそうですが、火力の具合が分からずにほんの少しの骨しか残らなかったそうです。
その残った遺骨をドロップスの缶に入れていました。
小説では儚くも軽い命として印象的に描かれています。
蚊帳の中で蛍を放したのは本当
題名にもある蛍。
はかなくきれいな命の象徴として例えられる昆虫ですが、妹を喜ばせる為に、蚊帳の中で蛍を放して見せてあげた話は実話だそうです。
「火垂るの墓」は実話を元に書かれた小説
実父は戦後に新潟県副知事を務めた野坂相如氏ですが、誕生直前に野坂昭如氏は生後半年で張満谷(はりまや)家に養子に入りました。
なぜかというと、実父と実母は別居していて、野坂氏を産んで実母はすぐに亡くなってしまいました。
それで、生後半年で引き取られた訳です。
自分が養子だと知ったのは11歳の時でした、それは偶然戸籍を見たことで分かったそうです。
張満谷家には同じように2人の血の繋がらない妹がいました。
最初は、上の妹はそれなりに愛情を与えてかわいがっていましたが、残念ながら病気で早くに亡くしてしまいす。
そうするうちに戦争が始まり、生活に余裕が無くなると下の妹の世話もしなくなってきます。
そして、ついには栄養失調で1才6ヶ月で亡くなりました。
野坂氏はその懺悔の意味を込めて小説火垂るの墓を執筆しましたが、実話を元に書いたといって主人公の兄を美化して書いてしまったことが、後に野坂氏を苦しめる事となります。
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